お客様の声

【お客様の声】「周りの人に恵まれるようになり夢に向かって進んでいます」

こんにちは、平井です。

 

 

お客様から「私の人生の今までとこれから」と言う内容でカウンセリングを受けての感想をいただきました。

 

 

Aさま
愛知県 20歳 女性

 

 

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私の人生の今までとこれから

 

 

お母さん=平井智美さん
母・母親=私を産んでくれた母親

 

 

⁑家族構成
生まれた時(1998年時点)
祖母(母方)・父・母・姉・私

 

現在(2019年)
祖母・母・姉(一人暮らし)・私

 

⁑住んでいる場所
愛知県
⁑年齢
20歳

 

 

⁑両親の兄弟姉妹順
父→2人兄弟の弟

 

母→2人姉妹の妹

 

⁑私から見た祖母
頑固でわがままで、完璧主義。とても厳しい。

 

 

⁑私から見た父親
頼りないが真面目で面白くて優しい父親だった。
人を笑わせることが好き。
祖母や母に反発することはなかった。

 

 

⁑私から見た母親
自由。自己中心的。

 

 

⁑私の生い立ち(私がお母さんと出会うまでどのような環境で、どうやって育ってきたか。)

 

 

(幼児期 0〜6歳(1998〜2005)幼稚園)

 

私は愛知県の病院で生まれた。
父は当時、物流会社で働いていた。
母は私が生まれた当時は仕事をしていなかったそうだ。

 

 

 母曰く、私はおてんばで明るく、姉と比べて手のかからなかった子だったそうだ。
 祖母や母や父だけでなく、いとこなど親戚のおばさん達と過ごすことが多く、よくお世話になっていた。

 

 

 私が物心ついた当時から母は厳しく、とても怖かった。母の言うことが聞けなかったり母の思い通りにならなかったりすると暴力があったり、夜家の外に出されて母の気が済んで私が謝るまで家の中に入れてもらえなかったり、悪いことをしたら山の奥に捨てるよと何度も脅されたりした。母の暴力が怖くて、母が近くに来るたびにビクビクしていたが、姉が母から暴力を受けたり、家の外に出されたりするところは一切見たことがなかった。

 

 

 

 近所のおばちゃんが、外に出された私があまりにも泣いているので心配で見に来てくれたこともあったが、母がなかなか変わらないからなのか、気づいたら誰も助けに来なくなっていた。
祖母も当時から厳しかった。味噌汁をこぼしただけで「何をしているの!謝りなさい!」と怒っていた。

 

 

 私が外に出されたりして泣いている時、父は一回だけ助けてくれようとしたことはあったが、母に助けるなと言われたきりそれに従って、私が怒られている時は父が口を出すことは一切なかった。

 

 

私は当時おねしょがなかなか治らなかった。母から「寝る前に必ずトイレに行きなさい。トイレに行かずにオムツにおねしょしてたらまた家の外に出すよ。」と言われていて、母からの暴力や外に出されるのが怖かったため、おねしょしないようにするために必死だったが、度々トイレに行くのを忘れてしまったり、トイレに行っても出てしまった時は母に怒られたり家の外に出されたりしていた。まだ小さかった私はどうしたらいいのかわからなかったし、私がおかしいから母に迷惑をかけていると思っていて、ただただ夜が嫌だった。

 

 

 母は服を姉と私でお揃いや色違いの服を着せていることが多かった。髪飾りから全て母が選んで買っていた。
幼稚園に入園した時、母は仕事に勤め始め、
私が5歳の時から祖母の勧めでクラシックバレエを習い始めた。

 

 

 幼稚園では、同じ年の子と遊ばずひとりで遊んでいるか、年下の子や年上の子と遊んで面倒を見たり、見てもらったりすることが多かった。
6歳の時に母の望みで1匹の犬を我が家で飼い始めた。父と母と姉と4人で散歩に行ったりした。

 

 

(児童期 6〜12歳(2005〜2011)  小学校)

 

 

小学校に入学して、習い事も増えた。
小学校に通っている間では、習字・スイミング・チアダンス・ヒップホップダンス・英語を習い始めた。
クラスでは何度かいじめにあっていた。

 

 

その時母には何も相談しなかった。言うのも恥ずかしかったし、言うまでのものでもないし、言っても無駄だと思っていたからだ。ただただ学校に行くのが嫌で辛くて行きたくなくて、でも誰にも言えないので1人で悩みを抱えてもやもやした生活を送っていた。学校に行く前によく吐き気や腹痛があったが、母に言っても「大げさだ」とか、「またわざと演技してる」と言われ、私の意見は何も聞いてもらなかった。なので熱が出ていない時は学校に行っていた。

 

 

 当時〈たまごっち〉というゲーム機が流行っていたのだが、新機種発売初日に父が長蛇の列に並んで私と姉の分を買ってくれた。私が買ってと望んだのかどうかは覚えていないが嬉しかったのは覚えている。

 

 

家ではひとりでお菓子を作ったり料理をしていることがほとんどだった。自分のためではなく、家族や親戚や友人によく作っていた。ケーキなど甘いものは家族が好きだったため、家族に振舞って美味しいと言ってもらえるのが嬉しかった。友人が遊びにきたら友人にお菓子を作ったり、あるいは一緒に作ったりもした。誰かにレシピを教えてもらったわけではなく、本で読んだり自分で試行錯誤して作っていた。

 

 

 小学四年生の時の担任だった男性の先生にはとてもお世話になった。私の好きなことや得意なことを理解して、小学校の学習発表会でそれを生かせるような役を与えてくれたり、父も仕事で見に来なかったダンスの発表会に見に来てくれたりして、嬉しかったしそのことをすごく覚えている。

 

 

 母はわたしが自分でオシャレをしようとすると、邪魔したり馬鹿にすることが多かった。例えば、夜お風呂に入ってから可愛いヘアピンで髪を止めたりしていたら、母から「そんなことするなんて病気なんじゃないの?」と言われたり、写真で自分のしたいポーズをしても、「なにそれ?」「おかしいから普通のポーズをして!」と言われたりして否定されていた。自分のしたい表現はおかしいんだ。と思うようになり、自分をのびのび表現することは怖かった。

 

 

 母からはよく祖母や父や姉の悪口を聞かされていた。「(私の父が)あんな熱い温度でシャワーをするなんて病気じゃん。」だとか、「(私の姉)は自己中だ。」というようなことをたくさん聞かされてきて、逆に母が姉に私の悪口を言っているのも聞こえていた。

 

 

 母の友人とその娘(私と同世代)でよく遊んでいたが、母は友人に私の話をする時は、決まって「私の娘はキモい」「私の娘はビビりだ」と軽い気持ちでよく言っていた。私はその時どの母親も自分の娘をそうやって紹介するのかな?と思いつつも、私はキモいんだと傷ついたり悲しかったり、自己評価や自信をなくしていたのを覚えている。

 

 

私が母に怒られたりして泣いていると、「ほら、またすぐ泣く!」と笑われたり、少し反抗して母に直接言わず独り言で「ママは何もわかっていない。なんでわかってくれないの。」などと言っていると、それを聞いた母は姉と「はじまった!また念仏唱えてる!」と笑い合っていて、私の話を聞くことはなかった。

 

 

 

 私が8歳の頃から母は仕事を2つに増やし、忙しくなった。私が中学に入るまで掛け持ちで仕事をしていたため、母と会うのは夜中少しだけだった。
 習い事のダンスに関して、母は厳しかった。

 

 

 私が踊っていると「動きがおかしい。変だ。」「みんなはできているのに〇〇(私)はできていない。」などと言われてきた。ポジション(ステージでの立ち位置)にも母は敏感だった。私はポジションさえ良ければ母に認めてもらえると自分もポジションばかり気にして必死だった。
母は仕事で忙しく、発表会に見にこれないことがあったり、保護者が必要な場面でも父も母も参加できないことが多かったためダンスの友人の母が送迎やその他のことをお手伝いしてくれていた

 

 

 11歳の時に突然父が交通事故で亡くなった。母はそのことを姉とわたしに報告する時泣いていたのを覚えている。父の葬儀などの手続きや準備をしている時、近所のおばちゃんから「これからはお母さん1人で大変だから、〇〇ちゃん(私)がお母さんを守ってあげるんだよ。」と言われ、私がしっかりしなきゃと当時は思っていた。

 

 

 父と母は私が物心ついた頃から喧嘩が絶えなかったが、その頃の父と母は本当に仲が良くなかった。喧嘩というより、母が一方的に父に怒っていた。祖母にも父はよく怒られていた。何度も離婚の危機があり、母から「パパとママは離婚するかもしれない。」と聞かされていたため、仲が悪いことも知っていたし離婚の覚悟もしていた。

 

 

その中で父が突然亡くなり、交通事故とは聞かされていたものの、その時父が生きていても母と離婚して父を失っていたのではないかな?とか、本当に父はただの交通事故なのか?パパは我が家で生きづらくなって自殺してしまったんじゃないのかな?と思っていた。

 

 

 

父は家庭の中で存在感が薄かったが、わたしがテスト勉強をしている時、日本の地名を覚えやすいように面白く教えてくれたり、ある日は一緒にポテトチップスを作ったりしてくれたり、一緒に釣りに連れて行ってくれたりと、人を笑わせるのが好きな優しい父だった。父以外の家族で遊んだりすることは多かったが、父を入れて家族みんなで遊ぶことはほとんどなかった。子供ながらに父は忙しいからしょうがないんだと思っていたが、ほんとはみんなで遊んだり、もっと関わりたかった。

 

 

(思春期・青年期 12〜20歳(2011〜2019) 中学校〜現在お母さんと出会うまで)

 

 

中学校に入学して、近くに住んでいる子達と私を合わせて3人で登下校するようになった。
その子たちとはトラブルが多かったが、私は私以外の2人の喧嘩の仲裁でいることが多かった。
そのうちの1人(友人A)とは部活も同じで、よくトラブルになっていた。その時それを知っていた母が校長先生に「来年はAちゃんと同じクラスにしないでほしい」と学校まで言いに行ってくれたのを覚えている。
その友人は物事の達成度の50%の子だった。

 

 

私がその子といる時はその子の話を聞いてばかりだったり、その子の用事に付き合うことが多かった。
当時習っていたチアダンスのレッスンは楽しめなくて行きたくない日々が続き、レッスンの時間が近づくと部屋に閉じこもっていた。祖母や母からは「レッスン代がもったいないから行きなさい!」などと言われたが、なんのために行っているのか分からず習い事に行ったり休んだりしていた。

 

 

中学校では卓球部に入部した。
 最初は「絶対続かない。」などと反対されたが、反対を押し切って卓球部に入部した。
部活ではずっと仲の良い友人はできなかったが、試合ではなんとかレギュラーメンバー入ることができた。中学校最後の試合でも県の大会に出場し結果を残すことができ、中学校3年間の部活動は楽しかったことを覚えている。

 

 

家では姉が学校から疲れて帰ってきて寝ていると、祖母が「自分の部屋で寝なさい」と言って姉を蹴って起こしたり、叩いたりしているのをほぼ毎日見ていた。それを見て私は姉と同じことはしないようにしようと思っていた。

 

 

高校ではソフトテニス部に入部した。
母には「絶対続かない。」「ラケット代やウェア代がもったいない。」と反対されたが、それも反対を押し切って続けるという約束で入部させてもらった。
父と関わりが少なかったせいか、顧問の先生など先生と話すのが苦手だったし、話しかけられてもなんと答えれば良いのかもわからなかった。

 

 

 当時は自分の体型にもコンプレックスがあり、ダンスで体型の見える衣装を着ていることが多いこともあってダイエットをしていた。10キロ以上痩せて野菜しか食べず、生理が止まったこともあった。母に認めてもらいたいという気持ちもあり、痩せさえすれば母に認めてもらえると思っていた。

 

 

 その頃には人間関係も全く上手くいかず、楽しく楽に話せる友達は居なかった。お弁当も1人で食べたり、誰かと食べさせてもらってもニコニコしていることしかできなく、どうしたら良いのかわからなかったので、いつもお弁当の時間が近づいてくるだけで憂鬱だった。

 

 

人と話すのもどんどん怖くなっていった。「どうしてみんな普通に楽しそうに話せるのだろう。」「人と話すのが怖い。」「何もかもうまくいかない」「何を話せば良いのかわからない。」「人と対等に話せない。」「人を好きになれない。」などと悩んでいて、学校に行くのが嫌だった。

 

 

ダンスのレッスンでも先生と話すのも怖かった。先生が近づいてくるだけでビクビクしていたし、少しでも良いポジションだと「期待に応えなければいけない」とか、全く自信なんてものはなかったのと、「褒められたい」「認められたい」という気持ち一心で必死だった。

 

 

高校3年になり周りが就職や進学先を決めているなか、私は自分が何をやりたいのかわからず、未来が真っ暗で見えていなかった。周りに誰にも相談できる人がいなく、当時祖母や母はそのことに関して何も言ったりしてこなかった。母は仕事をして友人と遊んだりしていた。

 

 

母に一度だけ「人に心境を聞かれても、なんと答えればいいのかわからない。」と相談したことがあったが、母は「私にそんなこと聞かれても私もわからない。」と言われて、毎日同じ悩みや考え事が頭の中でぐるぐるして、どうしたらいいのかわからなかった。

 

 

 高校を卒業して少し経ってから、その時習っていたダンスや仕分け作業のアルバイトもやめた。もちろん友達もいなかった。その時は夜も眠れていなくて母は私をいろんな病院に連れて行った

 

 

どんな睡眠薬を飲んでも眠れず、病院で受けたカウンセリングでは何も効果がなかった。「楽しいことは何ですか?」と聞かれた時、私は「それがわからないから悩んでるんだよ!」と怒りが湧いてきたこともあった。ある病院では私の相談内容に対して逆ギレされたこともあった。

 

 

その時はただひたすら「消えたい。」「なんでうまくいかないのだろう。」「誰と話していても緊張する。」「誰といても心が休まらない。」「心が休まる場所が欲しい。」と思っていたり、居場所がない寂しさも感じていて、毎日が憂鬱な日々を過ごしていた。
誰とも会いたくなく、太陽の光も嫌だったのでカーテンは遮光カーテンを全部閉めて部屋も真っ暗にして、母親が部屋に入ってくることも嫌だった。

 

 

⁑家族の嫌だったこと・すごく覚えていること

 

家族会議(父が生きている時、家族で何か問題が起こったら家族集まって会議があった。)で、父が夜よく眠れないということから話し合いをしていて、その原因が私の生活音がうるさいからであると母から聞かされ(父から直接言われたわけではなかい。)私のせいで家族の仲が悪くなってしまったんだとも思い私がいけないんだと悲しかったし、どうなるのか不安だったのをすごく覚えている。

 

 

私が小学生の頃、普段真面目で優しい父が牛乳の入ったガラスのコップを壁にぶつけて割ったことがあった。その時は何事かと衝撃で、めったに怒らない父が割ったのが怖かったことや、コップを割ったことが原因で母と父と祖母が喧嘩をしていたのですごく覚えている。

 

 

父以外の家族で北海道の親戚の家に遊びに言った際、その当時私は髪をくるくるにパーマをかけさせられていて、親戚のおばちゃんに「髪の毛可愛いね。」と褒められたことがあった。その時それを聞いていた母が「〇〇(私)は私のおもちゃだから」と話していたのが強烈に覚えている。その時は頭からその言葉が離れなかった。

 

 

祖母がうるさかったことが嫌だった。
私が祖母に怒られた時少しでも反抗した態度をとると、祖母は「何もできないくせに目上の人に向かってなんだその口の聞き方は!」「いっつもお前はそうだ!」「だからお前は友達がいないんだ!」とか、「もっと感謝しろ!」と怒ってきてそれがすごく嫌だった。

 

 

⁑家族との楽しかった思い出

 

お正月に一度だけ、父が企画してくれて父と母と姉と私で計4人で二人羽織をしたこと
墨で顔に落書きしあったりもした。
家族4人笑い合っていて楽しかった。
父と一緒にポテトチップスを作ったこと。当時自分の家でポテトチップスが作れるなんて知らなくて、さらに父と一緒に作れたのが楽しかった。

 

⁑平井お母さんを見つけるまで・どのように見つけたか

 

どうしてこうなっているのか分からなかった当時は人に会いたくなく、自分の部屋で閉じこもっていた。太陽の光も嫌でカーテンも開けたくなかったため、カーテンも開けずにベッドの中でひたすら消えたいと思っていた。死にたいとかじゃなく、一瞬にして消えてしまいたいと思っていた。寂しくて訳もなく涙が溢れてとまらないこともあった。

 

 

そう思いながらインターネットで”消えたい”や、”アダルトチルドレン  人が怖い”などと検索していて、ただこの状況をなんとかしなきゃいけない、けどどうしたらいいのかわからない絶望や寂しさを感じながら、ネットで答えを探していた。そんな時お母さんのブログの記事を見つけた。見つけるまでいろんなカウンセリングや病院に行ったことはあったが、いくつか記事を読んで、私に当てはまることが多く、これほど当てはまることはなかったためこれしかないと思い、カウンセリング受けてみようと思った。

 

 

⁑カウンセリングを受けての気持ちの変化

 

最初カウンセリングを受けた時は怖くてとても緊張していて、どんな人なんだろうとか、何を話せばいいのかわからないと思っていて本当に私に合っているのか、私はアダルトチルドレンといってもいい人なのか不安に思った時もあった。カウンセリングでは、自分の悩みである「人と話すのが怖いです。」などと言うのが精一杯だった。

 

 

感情解放もはじめはセリフを読んでいるような感じで、なんのためにやっているのか分からなかった。でも、カウンセリングで経験したことは全てが初めてで、特に私の感情をお母さんがしっかり受け止めてくれたじんわり暖かい体温がポッと上がるようなあの感覚を初めて経験した時は今でも忘れない。こんな感覚があるのかとも思ったし、初めて心の休憩場所ができたような感覚だった。

 

 

最初の方のお母さんとのメールのやり取りは、正直お母さんはあっさりさっぱりしているので、当時の私には少し怖く感じた部分もあった。まだお母さんに本音を言えなかった時は自分の携帯や紙に本音を書いたりしていた。

 

 

カウンセリングではカウンセリングの内容のポイントだけを紙にまとめていたが、次第に「何かもったいない。カウンセリングの他に何かできることはあるかな?会話を一語一句全部残して、後から会話全部見直したらまた気づけることがあるかもしれないし、カウンセリングの効果も上がるだろう。」と思うようになり、あらかじめもう1つの携帯でカウンセリングの会話を録音して、それを自分の手書きで会話をノートに文字に起こすようになった。

 

 

勉強とか、学校の宿題は苦手だったのだが、不思議とお母さんとの会話を文字に起こすのは全然しんどくなく、楽しかったし時間を作ってでもやりたいと感じていた。しかし、やっていくうちにそれよりもパソコンで打って文字に起こした方が良いのではないか?と思うようになり、手軽に打てるパソコンで会話を全て入力するようになった。

 

 

そしてまたそれをやっていくうちに、今度はカウンセリングを録音してそれを聴いているとカウンセリングの効果が上がるというネットの記事を見て、「会話を後から聴き直したい!」と思うようになり、録音機を買いカウンセリングの会話を録音機で録音するようになった。

 

 

カウンセリングを続けていって、だんだんお母さんに本音を言えるようになっていき、感情解放も最初はセリフをただ読んでいるような感じだったのが少しずつ気持ちを込めて言えるようになってきた。その進歩が楽しくもあり、お母さんと話せる毎回のカウンセリングが楽しみになっていった。

 

 

 少しでも泣いて感情解放や、自分が面白く楽しいと思えるものを見つけるためにたくさん映画やドラマを見たりもして、内容が入ってこなかった映画なども、だんだんと内容がわかって観れるようになっていき、泣いたり笑ったりできるようになっていった。その時は早く分かりたい、早く変わって本当の自分になりたいと思って行動を続けていた。

 

 

今までは美容院に行ったりアルバイトをしたり、友人と遊んで深く関わったりすることも怖かったのでそれを避けてきたけど、その時の怖い気持ちや分からないことなどをお母さんが毎回受けて止めてくれるし、お母さんへの信頼感や安心感も増えていて、失敗してもお母さんが宮崎にいてそれを受け止めてくれるから大丈夫と少しずつ思えるようになっていった。

 

 

 

だからそうゆうことにも色々チャレンジしていけた。お母さんとメールしているうちに、私は、あぁやっと私の話を受け止めて聞いてくれる人と出会うことができた。私はずっとこんな人を探していたんだなとも思うようになった。

 

 

楽しいとか面白いと言う感情が分かるようになってきて、今まで見えていた景色がどんどん変わっていった。いろんなことが楽しめるようになっていって、楽しくない面白くない時や笑いたくない時は、無理して笑わなくていいんだとも思えるようになっていった。
 私がおかしかったんじゃなく、周りの大人が言っていることがおかしかったんだと、私じゃなく今テレビで活躍してうまくいっているような人でも私と同じ両親の組み合わせで同じ環境で生きてきたら私と同じ状況になっていたかもしれないということ分かって心もとても楽になった。

 

 

カウンセリングを受けてからは、アルバイト先でもだんだんと人と話せるようになっていった。怖くてわからないことが聞けなかったが、それもだんだんと聞けるようになっていって、アルバイト自体も楽しめるようになっていった。
人と話すときも緊張したりかまえていたのも少しずつ減っていき、人と関わることも楽しくなった。
 今では、私は母や父とか家族に恵まれていたんだなと思えるようになった。
お母さんと話し続けたことで、あっさりしてるけど本当の暖かい愛情のある世界を知って、本当に自分を大事にしてくれる人たちと心地よく一緒に居られるようにもなった。

 

 

⁑私がこれからどうやって生きていきたいか
(私の人生のシナリオ)
2019.3.31.  韓国料理のアルバイトの仕事を、料理長や店長や先輩がいなくても全部覚えて全部できるようになっている。
2019.4. 彼氏ができる
2019.5.26. 韓国へ行く。
2019.5.27. 韓国のDEFダンススクールに通いはじめて、歌とダンスのレッスンを受け始める。
2019.6.26. 日本に帰ってくる
2019.6.26. オーディションに応募する
2019.7.      jyp主催の第1(2段階中)オーディションを受けて、合格する
2019.9.jyp 主催の第2オーディションに合格して、デビュー組に入る
  1.  デビューしている。音楽番組で新人部門1位を獲得する。
2021.11.28.  Asia artist Awards 入賞「新人賞」を受賞する
         12.10〜14.  mama「今年の歌」受賞して、一流の私になっている。
2022.11.28. Asia artist Awards 入賞「ベストアーティスト賞など2つ以上」を受賞する
         12.10〜14. mama「今年の歌」を受賞して二冠を達成し、TWICEの人達みたいに音楽とパフォーマンスで人を笑顔にしたり喜ばせたり幸せにする世界の、超一流の私になっている。

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